このテーマで示されている「そこ」というのは、今パソコンと対峙しながらこの記事を書いているまさに「この場所」「この仕事」「この立場」ではないだろうか。
正直なところ、追い詰められている。
締切間近~過ぎ去った数々のタスクに追い詰められていて、睡眠時間も削られている。
ただ、決して辛くはない。
5年くらい前までは、これらタスクは収入を得るため、売上を上げるための”仕事”が多く、辛いこともあった。
でも今は、自分で選択した仕事、報酬有無に関係なく未来のための仕事、人生にとって大事な仕事にあふれている。
そんな状況だからこそ、追い詰められていたとしても、この記事を書いている今は楽しいと感じている。
なんだか、見えるのである。
マチビトキタルに興味を持ってくれて、検索とクリックを重ねてこの記事までたどり着いてくれて、今「そこ」でこの記事を読んでくれているあなたと、どこかの現場に入り共に頭を悩ませながらまちづくりに汗をかく未来が見えるのである。
私がこの記事を書いている「今」が、その「未来」につながっている。
想像した未来に近付いていく感じ。
この記事が、未来を実現するたくさんの積み重ねの一つになるはずである。
この感じが、まさに日々の仕事で感じている「楽しさ」に通じるのだと思う。
そしてこの「楽しさ」の源泉にあるのが、「熱さ」だと思っている。
「ワクワク」と表現されることが多いこの感情、私としては「熱さ」の方がしっくりくる。
「未来」を実現するための「熱さ」が「楽しい」のである。
熱いことを言っている大人はとてもかっこよく見えるし、自分も言っていきたい。
この「熱さ」の源泉。それは私が復興事業に関わり始めたころに感じた「違和感」から生じている。
入社2年目の25歳、東日本大震災津波による被害を受けた岩手県大槌町に常駐しながら、“都市計画コンサルタント”として様々な復興事業に関わっていた。
この時、「今後このまちをどうしていくか」についてまちのいたるところで話し合われていた。
行政が主催する場だけでなく、地域が主体となって話し合いが進められる場もあった。
これは、いわゆる「住民主体」にとどまらない、「協働」の状況である。
住民だけではなく、行政も、民間事業者も、共に目の前にある問題にぶつかりながら、いつかまたこのまちで幸せに暮らす、それを見届けるという未来を見ていた。
そのような状況下、これからのまちづくりについて話し合う場で、まだまだ何も分かっていないながらも、私はファシリテーターとして話し合いがしっかり進むよう舵取りをする役割を担うことが多くあった。
とある話し合いの場で、私はファシリテーターとして5人程で構成されるグループの進行を務めていた。
そのグループには夫婦で参加しているおじいちゃん、おばあちゃんがいて、話し合いが進む中であまり発言していないおばあちゃんに話を振ってみた。
私「おばあちゃんは、ここに書いてあることについて何か思ったこととか、感じたことってある?」
おばあちゃん「そんなこと、私はいいから、父ちゃんに聞いてよ」
可愛らしい笑顔と「ちょっと私に当てないでよ~」と表現するような身振りと共に、その回答があった。
その時、私は思った。
「ん・・。自分のまちの未来なのに、何で誰かに任せちゃうの?」
「それって、私は関係ない、誰かの問題、ってこと?」
おばあちゃんに対して、このような疑問を感じる、違和感がある言葉だった。
さらには、誰かに任せてしまうおばあちゃんを、責めてしまう気持ちまで持ち合わせてしまったのである。(今思えば、私の未熟さの一言に尽きる)
この言葉にモヤモヤしながらまちづくりに関わり続け、少しずつ気付いてきたことがある。
このおばあちゃんの言葉って、おばあちゃん一人の言葉じゃない。
私も含めて、一人一人が持っているであろう言葉である。
地域、まち、社会を見渡すと、「私は関係ない問題」「私が知らない誰か・どこかの問題」にあふれている。
でも、地域も、まちも、社会も、一人一人が積み重なってできた集合体であり、一人一人がつながっているのである。
一人一人の感心が、想いが、一歩が、地域、まち、社会を良く変えていくはずである。
だからこそ、あの時のおばあちゃんが「私はこんなまちにしたい!」と言えるまちになったらきっと楽しいよな、色んな問題ってなくなるよな、と思うのである。
この未来を実現することが私の「熱さ」であり、そこに向かうことの「楽しさ」である。
そしてまちづくりの仕事は、たくさんの「こんなまちにしたい!」という「熱さ」に出会える。
こんな誰かの「熱さ」に触れることが楽しくて、自分の「熱さ」が楽しくて、私は「ここ」にいる。